暗くて愚かなニクいやつ。

俺はお前を殴らないからお前も俺を殴らないでおくれ

僕は幽霊、幸せ者さ【小説再掲】(1700文字程度)

  畳んだビニール傘を携えて、ひと月ぶりに君がやってきた。

  先月とは打って変わって、今日は薄手のカーディガンを羽織っているんだね。

  木々の緑に溶けてしまいそうなほどの、落ち着いたグリーン色。

  君はしゃがみ込んで傘を地面に置いて、僕の墓石に手を合わせる。

  墓石越しに、そんな君を覗く。

「……ついこないだまでの暑さが、嘘みたいだね」

  君は一つ身震いをして、その世界にはいない僕に話しかける。

  僕は、そうだね、なんて応えつつ、タンクトップと短パンを身にまとう自分の身体を見る。本棚の漫画の巻数が乱れているかのような、バラバラの時刻を指す時計がずらりと並んでいる時計屋のような、そんなちぐはぐな、アンバランスな季節感を笑った。

「《あの日》が、今日みたいな気温なら、川遊びになんて誘わなかったのになあ」

  おいおい、そいつは無茶なお願いだよ。僕は苦笑した。

  だって《あの日》は、抗う余地なく完膚なきまでに、八月らしい八月だったんだから。

「……駄目だね。ずっと後悔してちゃ。もしキミが今の私を見たら、笑っちゃうよね」

  そうだね、笑っちゃうよ。

  僕は今、後世を謳歌しているんだ。栄養を取る必要も眠る必要もなく、ずーっと遊んでいられる身体なんだからさ。

  ほら、見てよ。幽体ってのはこうやって、自由に飛び回れるんだ。気付いてないだろうけど、君の周りを浮遊して「守護霊ごっこだ!」って遊ぶこともあるぐらいだよ。

  僕だってそんな風に笑っていられるんだから、君もいつまでも湿った顔してちゃいけないよね。

「キミってば、大人びてたからなあ。ガキのくせに。今の私にしたって、当時のキミより大人になれてる気がしないよ」

  うんうん。見た目だけは魅力的な歳の重ね方をしているくせにね。

  君のほっぺを感触なくつついて笑うと、君は急に訝る顔になった。

「……なんか今、私を馬鹿にするキミの顔が浮かんだ」

  おっと、相変わらず君は変なところが鋭いんだなあ。

  女心ってやつだけは昔からどうも分からないよ。

「それはともかく、今日は話があって来たんだ」

  ほほう、それはどんなことかなあ。

  愛の告白だったりするのだろうか。

  僕は墓石の上で正座をした。足のしびれも感じないから、いくらでもお話を聞いてあげられるよ。だからいくらでも、愛の言葉を囁いておくれ。

「私、付き合ってる人がいるんだけどね」

  ……うん。まあ、知ってたけどね。

  結構な頻度で守護霊ごっこやってたし。

「プロポーズされたんだ」

  君はお腹を軽く撫でながらそう言った。

  それならもっと、嬉しそうな顔すれば良いのに。

  なんでそんな、今の空模様みたいな顔してるんだ。

「私、幸せになっても、いいのかなあ」

  おいおい。

  そんなこと、僕に聞く必要なんかないだろう。

「君を残して、自分だけ進んでも、いいのかなあ」

  俯く君に、雨粒が落ちる。

  目に浮かぶ水滴が雨だって君の言い訳は、今なら通用させてあげるよ。

  僕は墓石から降りて、君の前に立つ。そして、僕とは違って大きくなったその背中に手を回す。君の顔が僕の薄い胸板に埋まる形になった。

  僕は幽体だから、高鳴った心音が君まで届く心配はしなくてよさそうだ。

  心音と同様、届くことのない声で、僕は君の耳元で呟いた。


  君は君のーー思う通りにしていいんだよ。


  何やら驚いた様子で顔を上げた君の右頬に、バレないのをいいことに口づけしてみた。

「……!」

  君がこちらの世界へ導かれた数十年後にでも、このセクハラまがいを教えてやるとしよう。

  君は右頬を触れながら、不思議そうに辺りを見回した。あちらとこちらは干渉し合わないはずなのに、偶然ってのは恐ろしい。

「……?」

  僕は君の足枷にはなりたくないんだよ。

  いつまでも、君を苦しめていたくない。

  まあ、そのすらっとした足の枷役になるってのは、それはそれで魅力的な役回りではあるけどね。

「そろそろ…… 行くね。天気も崩れてきちゃった」

  君の言葉を受けて、僕は両腕をほどいた。もうすぐ、雨も本降りになることだろう。

  届くはずのない体温よりも、君にはもっと温かい場所がある。

  傘をさして立ち上がった君は少し歩みを進めた後、振り向きざまに言った。

  その世界にはいない、僕に向かって。


「……キミの分まで、幸せになるよ」


  それはとても、嬉しい宣言だ。

  こっちまで笑顔になってくるよ。

  でもその言葉には、一つ語弊がある。

  その言い方だと、まるで僕がーー幸せじゃないみたいじゃないか。

  そんなはずがないだろう。

  僕のために、君は何度も足を運んでくれるんだよ?

  こんな天気の日にだって。

  傘に覆われた、小さくなっていく君の背中に向かって、僕は言った。


「僕は幽霊」


  墓石の上で立ち上がる。

  高くなった君の身長を追い抜かした。    


「大好きな女の子にずっとずっと想っていてもらえる、世界で一番の幸せ者さ」


  勢いを増した雨足が、届かぬ言葉を掻き消した。

  墓石の上に腰掛けて、去り行く君を見届ける。


  また一つ、君と歳が離れる。






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※この作品は以前『小説家になろう』上に投稿したものに、若干の修正を加えて再掲したものです。